学校教育の場でどうして護身術をおしえないのかというのが非常に疑問なのですが、私自身170cmの比較的細身の普通のおっさんということを考えれば180cm以上の筋肉質の男性と対等な力関係で言えば負けます。痴漢の話では実際に180数cm以上のかなり型位のいいおじさんを捕まえました。やるかやられるかでいえばそこそこ危険度を伴うわけですが、知らないよりも知っていた方がよりよいという意味では、これらの技術はかなり生活に不可欠な教育要素だと思われるわけです。
古(いにしえ)より捕縛術などを徹底的に研究してきた日本の格闘技が杖術です。時代劇などでよくお城の門の両脇に立っているお侍さんがやっているやつです。腰よりちょっと長い棒を持って立っているのを見たことのある人もいると思います。これらの警備は仁王像などの彫刻のように象徴的にさえなっています。お寺の門などには仁王像をはじめとする二人の僧兵が警備をしているという象徴的な様子を目にすることは多いでしょう。これらの杖術使いは警備と捕縛、護身術に特化しているので決して相手を傷つけないということをコンセプトにして練り上げられた武術です。

護身術という両義性

決して相手を傷つけないということをコンセプトにして練り上げられた武術というのは実は嘘です。ちょっと頭の悪い人々はここらあたりにすぐ騙されてしまうわけですが、そんな都合のよい武術があるわけがないのです。つまり武術にしろ格闘技にしろ護身のみの技術というのは基本的に不可能です。合気道で代表されるような護身術をうたっている武術も現在では警察や自衛隊の軍隊格闘技に取り入れられていますが実は非常に攻撃的な武術であり、ベースとしては殺人を目的にしています。古来の武士が学んだ柔術を基本にしているので当たり前といえば当たり前の話です。ですので、ここでの護身術の教育という理念そのものは、本来殺人を目的にした武術ですが道徳的に護身術として学びましょうねという約束の問題であり武術そのものの問題ではないということです。立派に人を殺めることができる技術をどのようにして護身や捕縛に役立てるのかという人間が決める問題なのです。
日本人の教養として非常に疑問なのが、実際のところこの両義性の問題です。つまり法的に非常に詳しい弁護士や検事という人々は法律の非常に小さな穴を知り尽くしていることになり、詐欺や恐喝など法的なギリギリのところでその行使が可能であるということであり、また同様にしてあらゆる手段で人命を救うう医者という職業とその知識は、数秒で人を殺すことに関する知識も同様にして学んでいるということです。世界にはその両義性に満ちています。結局のところ人間の道徳によるところでその行いが善になるのか悪になるのかという問題に還元されます。
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では、計算士が作った暗号を記号師が解くという近未来の情報戦線のやりとりが描写されていますが、この計算師と記号師は敵対しつつも同様の人物であることも同時に描かれています。つまり計算師になれなかった人間はそのまま記号師になるということができるのです。それもそのはず、いわゆる情報を守るホワイトハッカー達はさもすればクラッカーになるというのは現実の世界でも起こり得るし実際に起こっているというわけです。ここは本当に人間の行動様式の問題であり、その人本人の意思の問題なのです。

特に女子には護身術を身につけさせろ

女子と男子の力の差は歴然としています。私は特に女子は護身術を体得する必要があると考えています。というのも自分の娘には少なくとも自分で自分を守る技、また夜でも一人で歩くことのできる技量と精神状態と身に付けるべきだと切に願っています。しかしながら女子に人を殺す技を身に着けさせるのは非常に難しい。なぜならそもそもが人を殺すことを目的としているのでそれらの道徳上の概念をアプリオリに教育するというのは非常に困難だからです。にも関わらずそれらを教育するにはどうしたらよいのか?

武術は凶器である

現在の日本の法律では武術体得し行使することは困難です。武術自体が凶器とみなされるので、凶器での攻撃は正当防衛であっても使用することが許されていないからです。法律上は専門家の方々が口をそろえて武術や格闘技が正当防衛の範囲であれば違法ではないということを言います(刑法36条1項)が、断然嘘です。正当防衛と過剰防衛を区別する厳密な手段がないためにプロボクサーなどは事件にならないようにするため、または自分の選手生命を守るためにも一切手を出さずにそもそもの防衛すらできないというのが現状です。正当防衛と過剰防衛の区別ができないというのは法律上の怠慢でしょう。つまり強い者が弱いものに敗北するという法律が日本には数多くある。(税制なども同じような逆転現象がおきるようなもの、雇用制度にも同じようなものがあります。)
となると道徳以前にも法的な整備も必要なのです。これがなければ女子は自分の身すら守れないことになってしまうわけです。

この有名な動画、ひったくりにバックドロップをきめた女性は法的な観点から言えば過剰防衛を通りすぎた傷害行為です。この映像である程度武術や格闘技を学んだ人間がわかることは、ひったくられたカバンの奪えかえし方です。動画の6秒目から7秒目の間に相手の手からカバンを引き剥がしエレベータの隅(動画の右隅に)カバンが飛んで落下するのが見えます。このカバンのとり方は相手の背中を取るための伏線になっていて、ひったくりがもった右手に対して(左に引っ張らずに)右に流すように引っ張っているのがわかるでしょうか?これは、ナイフやピストルでも同様に対処できる一種の武術の型で攻撃している半身の外側に入り込む基本的な体術です。つまりプロが鍛錬した動きです。カバンを引っ張って取り返すことで次の技を仕掛ける伏線をつくっているので素人が太刀打ちできるものでありません。その後あっさりを背中から脇を奪われ犯人は完全に取り押さえられるかたちになっています。このかたちになると犯罪という行為で浮足立った精神状態と予想と違う展開になってしまった動揺で勝負は決まったも同然になってしまいます。しかし男性と女性が体術の長期戦に持ち込まれてしまっては女性が負ける可能性が十分強くなります。ですから、女性側としては相手を過剰に制しておくことで本当の意味の防衛が可能になりますが、この行為を日本の法律では保証しておりません。
これらの映像が裁判に持ち込まれたとしたらこの女性は犯罪行為(傷害罪)となってしまうわけです。

銃をもつ共和党

このような護身の哲学が最終的に強化され極端になったのが、アメリカ合衆国共和党の銃の哲学です。彼らは護身のために銃をもつことをよしとします。「人を殺すのは人であって銃ではない」とスローガンの元、究極的な護身として(護身という正当な理由付けの元)銃を所持することを正当化します。ボウリング・フォー・コロンバイン(原題: Bowling for Columbine)というドキュメンタリー映画ではアメリカという国の銃に対する根強い肯定感と問題を題材にしたものでしたが、未だに銃を規制する動きにはなっていないようです。
武術は銃に匹敵するか? 私見では日本の武術は銃に匹敵すると思っています。殺傷能力は高い。日本の体術は基本ベースが刀を扱うことを前提にしているので非常に殺傷力が高い。合気道の関節技は刀を握れないようにするという技が多いですし、刃物をもったことを前提にしているので守備力も非常に高いのです。にもかかわらず私自身は銃と同様に日本の武術は義務教育でおしえるべきだと思っています。これは非常に有用です。

両義性とグレーゾーン

この両義性を乗り越えられるかというとそう簡単ではないということになります。つまるとこと憲法第九条と同様の哲学ということになるかと思います。
しかしながら単純に腕を掴まれた際の対処、カバンをひったくられそうになった際の対処、痴漢にあったときの対処、複数人に脅された際の対処、それらの対処が必要なのは被害者にならないようにするためというよりもむしろ、我々にはつまらない相手と関わっている時間はないということにつきると思っています。先程の女性のバックドロップは痛快です。一日じゅう警察に勾留されることもなければ奪われたものもありません。我々は常にコントロールできるものをコントロール配下においておく権利があり、コントールしようと強制してくるものに対しての対処をする権利があると思うからです。

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