「絵画がそもそもは写真であった」という事実は言葉としても概念としてもおかしい。そもそも写真であったものが絵画という芸術になったわけです。そしてこの「Betty」というGerhard Richterの絵画はどこから見ても油絵の具で描かれた写真なんです。
いわゆる芸術があまりにも芸術的になり誰もが芸術がわからないといいはじめた矢先にGerhard Richterがこの絵を描きました。誰も半ばふざけた恣意的な芸術を量産していた時代に彼は事実上写真を描いたのです。写真は現実の視覚を平面という支持体にそのゆらぎ移りゆく視覚情報を固定し定着させます。モナリザのように何百年に渡って当時の視覚イメージがこの現在まで保存されているというのはとてつもなく奇跡的なことであり感嘆すべきことだと思います。
Betty写真はつまりイメージの定着とそのイメージが時間を超えて共有できるという一種のメディアであり、つまり「結果論」としての概念が写真ということになるはずです。これら数ヶ月で失われる視覚情報はすでに失われた時点で写真ですらなく、まして失われているので存在すらしないものには写真という概念はすでにない。写真はその時間性にのみ支持され存在しうるということになります。また同時に写真は言語化できないにも関わらず人間の知的な神経に十分作用しうる上に抽象概念として我々の記憶にイメージとして刻まれる。刻まれたイメージは四六時中写真を見続けなければ維持できないような薄い概念ではないのです。そのイメージは写真不在の間に拡張され改ざんされ収縮し更に抽象化し別のイメージとして変容し取り込まれる。時折再び現れるその実物の写真(固定したイメージ)が自身の改ざんされたイメージと混合するとき、写真それ自体の価値が再び再評価される。だとしたら、写真は非常に刹那的なものであり実態と非実態の間(はざま)のような場所に位置して、我々のイメージを操作しうるということになる。いわば我々人間のこころに住む亡霊みたいなものが写真そのものの概念であり実態であるということになる。逆に言えば我々のイメージを拡張・改ざんしない写真は投射された映像が定着されていても写真ですらないということになります。
だとしたら16世紀ヨーロッパで描かれた絵画=写真はいったいどういう意味をもつだろう、あるいは、絵画を芸術として扱うそのイメージ映像の威力とはいかほどのものであったのだろうと。
レオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti、1404年2月14日 – 1472年4月25日)は、初期ルネサンスの人文主義者、建築理論家、建築家である。彼はカメラオブスキューラという現在のカメラの原型を建築を通して発見した。明るい領域の映像は小さなピンホール(穴)から暗い部屋に投射するとそのイメージを映像として映し出すことができる。彼が成し遂げた発明は人間が目にする視覚映像を別の領域にコピーするという発明であり、一瞬たりとも同じかたちを見せない自然の様子をコピーし固着化し固定化し保存することに成功したわけです。グーテンベルグがテキストのコピーを作り出す一方、アルベルティはイメージのコピーを作り出すことに成功していました。言葉を全く発さないイメージの固着化です。言語を介さないイメージはコピーという偽物の実態(または実態という偽物)を作り出し、人間の脳の中に入り込みます。
視覚情報は様々な付随的なイメージを自律的に生みます。西洋では髑髏は死のイメージ。ピンクは色情的なイメージ。地域と分化によって視覚イメージは拡張します。初期ルネサンス時に写真がひとつの現実のコピーであったことが後の絵画に「リアル」という現実性が付与され強化されました。現代でも写真を見ると我々は事実そのものであるか、事実の保存、またはコピーであると感じる筈です。しかしRichterはこれに疑念を投げかけます。彼は油絵の具で全く写真そのものであるかのような絵画を作り出します。絵筆によって手で描かれたものです。アルベルティのように現実を投影しているのか?あるいはゴッホやピカソのように視覚情報に何らかの脚色をしているか?そもそもこの絵画は現実なのか?史実的にはこの絵画のタイトルになっているBettyはRichter自身の娘であり、しかもこの絵画と全く同じ写真が残されています。彼は写真を油絵の具でコピーしたのです。現実のコピーとしての(一般的な意味でいう)写真がさらにコピーされて油絵という絵画になったわけです。誰しもがピカソ絵画は非現実的だというでしょう。ダリの絵画はシュールレアリスム(超現実)というでしょう。Richterの絵画は現実なのでしょうか?現実を写し取った写真を更に写し取った絵画は仮に現実だとしたらどのような種類の現実で、もし仮に現実じゃないとしたら何故ゆえに現実ではないのでしょうか?
データ工学の世界ではあるバイト数の塊としてのデータは事実データとして存在するとしても、データの塊が人間が理解できる一つの意味を保有していなければ本来的なデータではないと考えます。また写真と同様に固定化されて保持されなければデータと考えません。様々なメディアと通して流れてきたデータは人間にとって少なくとも現実的な意味をもっていることが前提になります。ですが逆にいうとデータは人間が理解できないところまで分解し分断するとしたら、それらはアルファベット、もっと最小な単位として2進数の1 or 0という人間には意味のないところに細分化できます。しかしこれらの意味のない文字列の連続性が最終的には人間にとって意味のあるデータを構築することができます。Richterの絵画の問題性は実にその部分であり、彼が描く油絵は、ありきたりの画材屋で売られている油絵のチューブに過ぎないのです。すくなくとも絵の具という単なる物質の組み合わせのみで現実を虚構として描き出すことに成功しています。そう、つまりこれはでたらめな嘘であることをためらわない現実に見える虚構の可能性があるわけです。

Richterは現実と虚構の境界線のようなところを視覚として提示します。視覚に訴えるあのクオリア(現実感)は嘘なのか本当なのかを訴えるわけです。

ある領域を堺にして我々の映像は意味のないかたちに変容する、または別の意味へ変容するわけです。事物の抽象性を理解する人間にとってはこれは実に意味深いことで、限りなく何かに近い、限りなく何かの意味がある、限りなく現実性があるという事物の抽象性を理解し咀嚼する力です。茂木健一郎さんのクオリア入門―心が脳を感じるとき (ちくま学芸文庫)にもあるように、ある何も意味を持たない映像がある日突然何か意味のあるものに見えてしまうという脳の仕組みを解説しています。我々は意識していないことに対して「意識せざる得ない」という事実に直面することがあるのです。そこには本当と嘘という二元論は皆無であり我々の認識というのは極めて偶然性にちかいところで事物を理解しているということになります。フロイトが無意識を主張する所以もそこにあると思います。

次回

  • 視覚イメージの直接性と抽象性。視覚は直接人間に働きかける。
  • 言語の視覚化。言葉は二次的な視覚イメージに過ぎない。
  • 完全な視覚、事実上の視覚は視力とイメージを喪失させる。ゴッホの絵画は視覚を強調するが、リヒターの絵画はむしろ視覚を喪失させる。
  • 交わらない視覚、遠距離の視覚。接近性の聴覚・嗅覚・触覚。セックスという混合。

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