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レイプと殺人と娯楽と哲学

サルトルの戦中日記という書物がある。実存主義の元になったといわれている名著であると評価される一方で私の私見では終始文句と愚痴を垂れ流しているしょうもない妄想メモでもある。なぜ本ばかり読んでいるんだと同僚に冷やかされながらも逆にすべての人間を心底見下しているサルトルの心象風景がみてとれる。客観的にみても彼の文才からするとおそろしく文学的ではあるにしろ決して美しいものではない。とてつもなくグロテスクで気味の悪い文体で後味が悪い。現代でいうところの誹謗中傷や悪口などは日常茶飯事でありむしりそれらしか書かれていないような書物が(いや、それらしか書かれてないようなノートが書物となり)名著になっているのである。 私達が高等教育の教養として学ぶべきことは実際のところ個々の技術や知識というよりもむしろ文字や映像、一般的にいう情報の持つ意味の両義性と境界である。もしまた高等教育を受けた人間がその「両義性と境界」を知らないとしたら彼らもまた下等であると言っても過言ではないと思う。 「会田誠さんらの講義で苦痛受けた」女性受講生が「セクハラ」で京都造形大を提訴 2019年2月27日 15時45分 弁護士ドットコム 京都造形芸術大の東京キャンパスで公開講座を受けたところ、ゲスト講師から環境型セクハラにあって、精神的苦痛を受けたとして、受講していた女性が、大学を運営する学校法人「瓜生山学園」を相手取り、慰謝料など計約333万円の支払いをもとめる訴訟を東京地裁に起こした。提訴は2月22日付。 原告の大原直美さん(39)と代理人が2月27日、東京・霞が関の司法記者クラブで会見を開いた。大原さんは「講義内容が本当にひどいものだった」「セクハラを訴えたあとも、大学側の対応が、教育者としてあるまじき姿だった」「生徒を守ってくれないのは本当に残念だ」と心境を語った。 ●会田誠さんの講義でショックを受けた。 代理人などによると、大原さんは2018年4月から6月にかけて、京都造形大・東京藝術学舎で開かれた社会人向け公開講座(全5回)を受講した。ヌードを通して、芸術作品の見方を身につけるという内容だった。大原さんは、第3回(2018年5月15日)のゲスト講師だった芸術家の会田誠さんの講義でショックを受けた。 講義は、涙を流した少女がレイプされた絵や、全裸の女性が排泄している絵、四肢を切断された女性が犬の格好をしている絵などをスクリーンに映し出すという内容で、会田さんはさらに「デッサンに来たモデルをズリネタにした」と笑いをとるなど、下ネタを話しつづけていたという。 大原さんは、会田さんのキャラクターや作風を知らなかったという。すぐに、大学のハラスメント窓口に苦情を申し立てたが、第5回(同年6月12日)のゲスト講師で、写真家の鷹野隆大さんの講義でも、勃起した男性の写真の投影などがあった。「講義を受けに来ただけなのに、どうしてこんな目に合うの?」 大原さんは、動悸や吐き気、不眠の症状がつづき、急性ストレス障害の診断を受けた。 ●「作家の作品の是非ではなく、環境を作り出したことが問題だ」 大学側は同年7月、環境型セクハラについて、対策が不十分だったと認める内容の調査報告書をまとめたという。ところが、そのあとの話し合いで、示談にあたって、お互い関わり合いを持つことをやめる、という項目の要望があり、交渉が決裂。大原さんは同大通信教育部を卒業して、他の大学やカルチャースクールで美術モデルの仕事をしている。 代理人の宮腰直子弁護士は「大学は、セクハラ禁止のガイドラインをもうけており、公開講座を運営するにあたっても、セクハラ対策をすべきだった。作家の作品の是非や、セクハラ言動そのものでなく、そうした環境を作り出したことに問題があった」と述べた。講座の運営方法や告知の仕方、その後の対応について責任を追及していくとしている。 大学側は、弁護士ドットコムニュースに対して「訴状が届いていないので、コメントできない」とした。 (弁護士ドットコムニュース) 告発の行方という映画ある。美しいジョディ・フォスター主演の名映画であるが、女性の魅力とレイプ、遊びと暴力など様々な意味でかつてのアメリカ社会を風刺したような映画だ。これらの映画が物語るのは結局のところ我々は真実を目の前にすれば何も判断できないということでありその虚しさである。(逆の意味でいうのなら、何も知らなければ判断できるということだ。) ありていにいって会田誠の絵画はひどいものだ。これはひどいといえる絵画ではあるが、私のやっていることに比べれば比較にならないほど美しくまたその労力も計り知れない。ものをつくる人間の意図は概してそういうものだし、私もつくることを諦めた人間の一人でもある。モノつくるということはその労力に見合わないのだ。作家の存在意義はそのモノが何かしらの現象を引き起こすことにあり、それは肯定的であろうが否定的であろうがある意味ではそのモノが意味をもったときだと思う。労力と対価は殆ど無関係だ。その意味のひとつがヒステリックな女の無教養から滲み出てきたということになる。彼の作品はそういう意味で世界中を揺るがしてきた。それは現代美術に対する強烈な皮肉でもあり強烈な批判でもあった。(と数々の評論家がそういった)作家本人はそういったことに言及しない。作家はそのようなことをはぐらかす。 ゲルハルト・リヒターがベンヤミン・ブクローにシンメトリーの構図の絵画について質問されたとき、彼はこう言った。「絨毯だってシンメトリーだ」 会田誠氏のような絵画は他にはない。無二の存在だ。しかしこういったことをテーマにする娯楽は実に大量に量産されているはずだ。それはアンダーグラウンとや裏社会に潜むイラストや漫画、わいせつとされる書籍やWEB、そんな下品なものはいくらでもあるそれらの社会ではそれはむしろ挑発的でもなく新鮮でもなくただの鎮撫なオナニーネタにすぎない。しかしながら彼が何故に表向き崇高と言わざるえない現代美術という分野でそのテーマを発表しなくてはならないかということだ。それは明らかに意図的だし明らかに何らかの志向性がある。 涙を流した少女がレイプされた絵や、全裸の女性が排泄している絵、四肢を切断された女性が犬の格好をしている絵などをスクリーンに映し出すという内容で、会田さんはさらに「デッサンに来たモデルをズリネタにした」と笑いをとるなど、下ネタを話しつづけていたという。 性をテーマにした芸術作品は有史以来数多くあり、むしろ芸術作品のそれはもしかしたら性でしかないのかもれない。性というのはそれぐらい平凡であり凡庸であり退屈だ。セックスは誰でも興味をもち誰でもする。ポンペイの壁画、世界遺産カジュラホ寺院、日本の浮世絵、ヨーロッパ新古典主義、ルネサンス、どこを見てもセックスだらけであり、芸術のテーマとしてはむしろつまらない。彼はつまらないテーマを扱っているのである。こうしていみるとセックスは異常なテーマですらない。告発のゆくえがレイプをテーマにしたように、殺意の夏、評決のとき、スリーピング ビューティー/禁断の悦び、レイプをテーマにした映画も多い。会田誠のテーマは現代にいたっては実際のところむしろさほど刺激的ではないということだ。 彼の作品が脚光を浴びたのはいくつかの多角的な原因がある。彼はそのような刺激的な(凡庸な)テーマを日本画(つまり、日本の伝統的な技法)で描く。彼の絵画はイラストのようではあるが物質的には絵画である。絵画であるがゆえにすでに絵画ですらない。 例えば男性として生きるには野蛮でなくてはならない。女性として生きるためには生物であり人間である必要がある。男性は耐え難く消耗品であるが女性は耐え難くずる賢く生き残らなければならない。性はそうした倒錯を植え付けるが実際の人間はもっと自由だ。自由ゆえに我々の生命は何一つ保証されていない。保証されていないがゆえに保証制度をこしらえるわけだ。芸術の鑑賞はそういった無保証の領域(それを人はときとして美しい言葉で無垢という)から眺めなければならない。それは一種の聖域であり鳥居をくぐった神社の境内のようなものだ。 会田誠氏の今回の問題はセックスの問題ではない。環境を作り出したことが問題でもない。法律と神話を戦わせたような奇妙な構造がこの現代にはあるということだ。神話は神話として成立し法律で守られているわけではない。しかし法律は法律で守られている現代の人工物だ。そもそも芸術は秩序を持たない。秩序をもたないモノに対して秩序を自分自身で創り出すのが芸術を眺める視座であり関わり方であり、何かを与えられる(ハラスメントを与える)と思っている連中には芸術に関わるにはあまりにも低能ぎるということになる。

未分類 2019.3.1(金)
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不連続・禁止・侵犯・暴力・聖

ジョルジュ・バタイユの「エロティシズム」という本がある。確か澁澤龍彦が翻訳していたはず。「エロティシズムとは死に至るまで生を称えることである」というわけで彼女は生を称える健康優良児である。もの静かながら健康である。生を称えつつある小さな少女である。(といってももちろん未成年ではない)そんな少女におっさんのチンコが入ると思うと申し訳ない気持ちになるが、私自身の方が死に至るまでの生を与えてもらった方ということになるのかもしれない。 そんなわけで、チョコレート・パフェをたらふく食ったあとにセックスしたかというとそうではなくて、そもそも私は彼女とセックスする気なんてさらさらなかった。というのも、私は変態専科、または変態SM百貨店、あるいは複数プレイの見境のないどちゃくそセックスという路線の人間なので、少なくとも普通のセックスをしないのである。本当のヤクザが素人を相手に恐喝したり違法な取引をしないように変態にも変態のそれなりの道があり、適当なセックスはしないのである。とはいえ、チョコレートパフェを食べながら彼女が言った言葉は「私はセックスしてもええで。でもあんたにそんな勇気はないと思うとるよ。」と静かに言うわけなのです。これは英語でいうところのチキンに等しい。しかもお互いに巨大なチョコレートパフェを食べているという異様な光景だ。ジョルジュ・バタイユいわく「エロティシズム(性)とは連続性=理性(労働)の断絶と侵犯である」と。そして「その侵犯という欲望は合理主義とか理性とかあわよくば文化や習慣を超えてゆく」と。 つるつる 健康優良児はつるつるである。比喩的につるつるなのではなく、物理的につるつるである。ほっそりとしている体ではあるもののそこそこの女性らしい肉付きでつるつるである。彼女が私の体に何を感じていたのかはわからない。(あとで聞いてみます。)しかし、素っ裸と素っ裸を肌と肌でアカの他人とこすり合わせるというのはセックス意外で滅多なことではないのだけど、私自身ちょっとした奇妙な感覚があるのです。シナスタジア(共感覚)である。実際のところクオリアやシナスタジアは本人のその感覚を出力できないことからそれが何なのかはよくわからないのだけどセックスにはシナスタジアがある。つるつるしたその皮膚感覚が限りなく音楽にちかいリズムと心地よさを与えてくれる。これは終始大好きな音楽を聞いているようなものである。あるいは大好きなゼンパー・オパーをうとうとと居眠りしながら聞いているような贅沢な感覚である。 あるいは、こういうことだ。天才とはメディアである、とかまるでマク・ルーハンががいいそうなことを言ってみたが、実際もそうだと思っている。何かを産み出すといわれている天才もたいていの場合何も生み出していないのである。彼等は繋ぎ混ぜ合わせ、予想するに大変やばそうな結果を意図も簡単に上等な事物に仕上げる。あるいはそういった風に見つける。そういうものなのだ。 そもそも神という概念は人間の内的な事象と外的な事象(つまり自然)のメディアであり媒体であるそうだ。人間が不在だったら神は存在すらしない、自然が不在だったら神は存在すらしない。しかし人間と自然の融合に発明があったし、今も大発明として世界に君臨する。それらのメディアは我々に新しい感覚を意図も簡単に植え付けることに成功する。どれもこれも非常に麻薬的である。 私は恋人の話を音として聞くことがある。何も聞いていないでしょ?と彼女は怒り出すことがあるかもしれない。が、それでもその音とリズムは格別であり特殊であり心地よい。また私の自慢の得意技は日本語という言葉のその音を音として抜き出し意味をそぎ落とすことができる。もしあなたがロシア語を聞いたとき、あるいは中国語を聞いたとき両者は明らかに音とリズムが違うということにすぐに気がつくだろう。そして言葉の音から意味を拾えないとすると純粋に音のみで聞くことになる。しかし英語にしろ日本語にしろ知っている言語から意味を排して音を取り出すことは意外にむつかしい。しかし構築された意味を意識的にゲシュタルト崩壊させることはできる。 そんなことを思いながら彼女にマ◯コにチンコを入れる私なのである。夢中になってセックスしていたら途中から異様に気持ちよくなってきた。Hermeto Pascoal - Feira de Asakusa (Asakusa Market) 彼女が私におしえてくれた鬼才エルメート・パスコアールのASAKUSAである。言葉がフリー・ジャズになる瞬間だ。私の場合セックスは音になるが彼の場合は言葉が音楽になる。これがシナスタジアのアナロジーである。セックスとはそういうことなのです。途中から異様に気持ちよくなったのはコンドームが外れていただけだった。ああこれはまずいと思いながらも最後は彼女のお腹の上に出した。彼女は「うわー精子臭い。」と言っていた。かなり中立的に。 マルセル・プルースト 「失われた時を求めて」 とある場所に安西水丸がピアニストと不倫中通っていたといわれている連れ込み旅館がある。なぜだか我々はそこに向かう。お昼の比較的早い時間にそそくさと向かう途中には比較的きれいな公園がある。何となくホテルに直行するのも何なので、私はその公園のベンチでひと息つきたくなったので彼女と一緒にベンチに座る。私は喋らない彼女が好きなので、なんとなく二人でぼんやりする。何か特別なことを喋ったわけでもない。 風呂も入らずセックスしだすというのは若者っぽい。私は正直言って風呂が嫌いだ。彼女の匂いがなくなって市販の石鹸の匂いになるのは非常に悲しい。なのでできるだけ風呂に入ってほしくない。なので風呂に入らないのは正解中の正解。 彼女は変態ではないらしい。私のような変態ジジイにとって変態ではない人と付き合うのは実に稀なことではあるが、いろいろ話を聞いていたら彼女は変態ではなく性欲旺盛な健康優良児である。セックスとはジャズ・セッションである。楽しい共同制作でもあるが、勝負でもある。クロス・ロードというバカバカしい映画ある。素朴なギター少年が天才ギタリストを負かすというどうしようもない映画である。(おそらくベストキッドの格闘がギターになっただけというだけのオマージュ) 若い女の子とのセックスはこんな感じである。キャリアと経験値はあるが純粋に何かが負けている感。次はドーピングして頑張ろ。彼女は数時間セックスしていても全然平気。 このときだけなのか、これから先もそうなのかわからないけど、変則位が多い感じがする。松葉崩し、寝バック、正常位少なめ。脚閉じうつ伏せバックが多め。これまた数時間セックスしました。今回は彼女が忘れずにポカリスエットを買ってくれました。この回は彼女は騎乗位してくれました。フェラもしれくれました。そしてちょっと後手に縛って犯しました。彼女がローション好きなので性器をローションでつるんるつんにしてセックスしました。彼女は不感症ではないが強い。かなり強い。格闘技でいうとかなり体重ののったパンチを打ってくるタイプ。だがしかし「ああ、なんかでるー、でるー」と小さくつぶやきながら蛇口をひねったみたいな潮を噴いたのが今回のサビでした。会場いっぱいみんなで歌うところです。量がすごい。サビは終わっても2番目があるよ。我々はセックスし続けます。彼女に「中で出していいよ。」と言われてから、失われた時を求めてのようになったのです。プルーストの小説をご存知ですか?主人公がただ普通に道を歩いているときに躓いて転びそうになります。「あ、やべ」と思った瞬間に過去の記憶が噴出します。あ、あのときってああだった、こうだったと。その記憶の噴出だけで数巻。。。とてつもなく長い。そして数巻読み終わったあと、やっと転びます。何かのジョークかと思われるほどのプロットですが、彼女が「中に出していいよ」と言ってから精子を中に出すまで、100年ぐらい経った感じがしました。ちょっとだけ変態が浄化されて普通のセックスをしたのです。おそらく有史以来、すべての人間がやってきたノーマルセックスです。

未分類 2019.2.22(金)
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性欲は続くよどこまでも

特に衝撃的でもないのですが、宋美玄さんのインタビューの中で、 でも、最終的な結論を言うと、ライフパートナー、つまり人生の伴侶とセックスパートナーというのが、ずっと一致するというのは、私は難しい> のではないか、と思います。私は法律の専門家ではないので、それが違法行為であるのはよくわかるのですが、本当にセックスについて> > 真剣に悩んでいる人たちの話を聞くと、そのパートナー同志では解なしというのが多いのです。 これはほんとに厳しい問題だなと思います。少なくとも日本では婚外のセックスは民法的には違法に属するものであるのと同時に夫婦間・カップル間以外でのセックスは「悪」であるからです。自然の摂理に反することに対して社会的に乃至道徳的に厳しい制約を課しているというわけです。ヨーロッパの啓蒙思想のようにこれらに対してある大きな運動というのもなかなか起きづらいでしょうかし、ましてデモ行進なんかやった暁にはビッチとヤリマンのオンパレードみたいな話になってしまうのがこの先進国日本の姿です。もちろんアフリカのFGMや韓国の儒教思想などを含めて後進国にはさらなる非合理的な習慣が残っています。反対に北欧を中心に娼婦を国営化(公務員化)するなどの政治的な動きがあったりします。日本はまだまだ遅れているわけです。 人間が人工的な制約に縛られることなく、人間自体が自然と一致している(自然の一部である)というのは今では理解できるお話でありますが、当時のヨーロッパでは人間が自然の一部であることは異常なことでした。ルソーが主張したように「子供を自然に育てる」という方法はキリスト教に対して異端であったり、今では当然であるようなニュートンの発見した数々の物理法則が異様であったりしました。 「啓蒙主義の人間観は言うまでもなく、自然科学がベーコンの主張とニュートンの指導下で発見した観点、 すなわち人間は自然と全く一致し、一般的に統一し た 構成を共有しているという見方であった。 還元すればニュートン的宇宙の如く、規則的に構成され、あくまで不変で、見事なほどに単純な人間性が存在するとい うのである」 (上巻 p.60)クリフォード・ギアツ『文化の解釈学』 "The Enlightenment view of man was, of course, that he was wholly of a piece with nature and shared in the general uniformity of composition which natural science, under Bacon's urging and Newton's guidance, had discovered there. There is, in brief, a human nature as regularly organized, as thoroughly invariant, and as marvelously simple as Newton'suniverse."(p.34), Geertz, 1973_Interepretation.      いつの時代でも異端であることを主張するには勇気のいることでした。場合によっては死刑になったり終身刑にさらされ、挙げ句の果てには親族まで貶められるという自体に発展します。魔女狩りを含め当時の様子を笑いながら眺めるというには、我々の現在の生活もその当時とさほど変わっていないというのが私の見解です。未だセックスについては触れてはいけない部分が非常に多いのです。様々なテクノロジーは発展するのに道徳的な根本思想は中世とたいして違わないという始末。 あっちゃこっちゃでセックスするのは、よろしくないのです。ここにはアホみたいにいろんな境界線がある。夫婦間の人間関係が破綻していれば婚外はOKだが、人間関係が良好なうちは婚外は許されない。こうなると人間関係が良好な夫婦ほど性欲が強く抑圧されなくてはならないという地獄絵図になる。夫婦がすでに双方そろって外に向いている場合はスワッピング(夫婦交換)すればよいと(私は個人的に思うが)これもまたインモラルすぎてままならない。まして奥さんが輪姦のような過激な夢を抱いていた際には、局所的にみれば変態行為で済まされるべきかもしれないがマクロ的に見ればとてつもなく悪の行為であるような体にさらされるというわけです。 そこで皆、秘密でそれぞれを解決することになる。表面的なそれとは別で水面下で解決される(解消される)とすると、ある意味では(ある種類の人間にとっては)事実と妄想の区別がつかなくなるといった現実の二重化が起こってしまうし、現に今現在もそれが起こっているということなのです。 男性の浮気は許されるが女性の浮気は許されるなどという一昔前の思想。また貧困格差によるセックスチャンスが全く皆無という層。偶然出会った比較的セックスに関しては自由なコミュニティー、また複数プレイや輪姦に関する警察のガサ入れ、そういう嘘みたいなそれぞれの現実が混在するという世の中でどれが本当なのがさっぱりわからないといった始末です。 認知症に「性欲ギャップ」…高齢者の性を巡る深刻すぎる問題

未分類 2019.2.20(水)
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護身術と両義性

学校教育の場でどうして護身術をおしえないのかというのが非常に疑問なのですが、私自身170cmの比較的細身の普通のおっさんということを考えれば180cm以上の筋肉質の男性と対等な力関係で言えば負けます。痴漢の話では実際に180数cm以上のかなり型位のいいおじさんを捕まえました。やるかやられるかでいえばそこそこ危険度を伴うわけですが、知らないよりも知っていた方がよりよいという意味では、これらの技術はかなり生活に不可欠な教育要素だと思われるわけです。 古(いにしえ)より捕縛術などを徹底的に研究してきた日本の格闘技が杖術です。時代劇などでよくお城の門の両脇に立っているお侍さんがやっているやつです。腰よりちょっと長い棒を持って立っているのを見たことのある人もいると思います。これらの警備は仁王像などの彫刻のように象徴的にさえなっています。お寺の門などには仁王像をはじめとする二人の僧兵が警備をしているという象徴的な様子を目にすることは多いでしょう。これらの杖術使いは警備と捕縛、護身術に特化しているので決して相手を傷つけないということをコンセプトにして練り上げられた武術です。 護身術という両義性 決して相手を傷つけないということをコンセプトにして練り上げられた武術というのは実は嘘です。ちょっと頭の悪い人々はここらあたりにすぐ騙されてしまうわけですが、そんな都合のよい武術があるわけがないのです。つまり武術にしろ格闘技にしろ護身のみの技術というのは基本的に不可能です。合気道で代表されるような護身術をうたっている武術も現在では警察や自衛隊の軍隊格闘技に取り入れられていますが実は非常に攻撃的な武術であり、ベースとしては殺人を目的にしています。古来の武士が学んだ柔術を基本にしているので当たり前といえば当たり前の話です。ですので、ここでの護身術の教育という理念そのものは、本来殺人を目的にした武術ですが道徳的に護身術として学びましょうねという約束の問題であり武術そのものの問題ではないということです。立派に人を殺めることができる技術をどのようにして護身や捕縛に役立てるのかという人間が決める問題なのです。 日本人の教養として非常に疑問なのが、実際のところこの両義性の問題です。つまり法的に非常に詳しい弁護士や検事という人々は法律の非常に小さな穴を知り尽くしていることになり、詐欺や恐喝など法的なギリギリのところでその行使が可能であるということであり、また同様にしてあらゆる手段で人命を救うう医者という職業とその知識は、数秒で人を殺すことに関する知識も同様にして学んでいるということです。世界にはその両義性に満ちています。結局のところ人間の道徳によるところでその行いが善になるのか悪になるのかという問題に還元されます。 村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では、計算士が作った暗号を記号師が解くという近未来の情報戦線のやりとりが描写されていますが、この計算師と記号師は敵対しつつも同様の人物であることも同時に描かれています。つまり計算師になれなかった人間はそのまま記号師になるということができるのです。それもそのはず、いわゆる情報を守るホワイトハッカー達はさもすればクラッカーになるというのは現実の世界でも起こり得るし実際に起こっているというわけです。ここは本当に人間の行動様式の問題であり、その人本人の意思の問題なのです。 特に女子には護身術を身につけさせろ 女子と男子の力の差は歴然としています。私は特に女子は護身術を体得する必要があると考えています。というのも自分の娘には少なくとも自分で自分を守る技、また夜でも一人で歩くことのできる技量と精神状態と身に付けるべきだと切に願っています。しかしながら女子に人を殺す技を身に着けさせるのは非常に難しい。なぜならそもそもが人を殺すことを目的としているのでそれらの道徳上の概念をアプリオリに教育するというのは非常に困難だからです。にも関わらずそれらを教育するにはどうしたらよいのか? 武術は凶器である 現在の日本の法律では武術体得し行使することは困難です。武術自体が凶器とみなされるので、凶器での攻撃は正当防衛であっても使用することが許されていないからです。法律上は専門家の方々が口をそろえて武術や格闘技が正当防衛の範囲であれば違法ではないということを言います(刑法36条1項)が、断然嘘です。正当防衛と過剰防衛を区別する厳密な手段がないためにプロボクサーなどは事件にならないようにするため、または自分の選手生命を守るためにも一切手を出さずにそもそもの防衛すらできないというのが現状です。正当防衛と過剰防衛の区別ができないというのは法律上の怠慢でしょう。つまり強い者が弱いものに敗北するという法律が日本には数多くある。(税制なども同じような逆転現象がおきるようなもの、雇用制度にも同じようなものがあります。) となると道徳以前にも法的な整備も必要なのです。これがなければ女子は自分の身すら守れないことになってしまうわけです。 この有名な動画、ひったくりにバックドロップをきめた女性は法的な観点から言えば過剰防衛を通りすぎた傷害行為です。この映像である程度武術や格闘技を学んだ人間がわかることは、ひったくられたカバンの奪えかえし方です。動画の6秒目から7秒目の間に相手の手からカバンを引き剥がしエレベータの隅(動画の右隅に)カバンが飛んで落下するのが見えます。このカバンのとり方は相手の背中を取るための伏線になっていて、ひったくりがもった右手に対して(左に引っ張らずに)右に流すように引っ張っているのがわかるでしょうか?これは、ナイフやピストルでも同様に対処できる一種の武術の型で攻撃している半身の外側に入り込む基本的な体術です。つまりプロが鍛錬した動きです。カバンを引っ張って取り返すことで次の技を仕掛ける伏線をつくっているので素人が太刀打ちできるものでありません。その後あっさりを背中から脇を奪われ犯人は完全に取り押さえられるかたちになっています。このかたちになると犯罪という行為で浮足立った精神状態と予想と違う展開になってしまった動揺で勝負は決まったも同然になってしまいます。しかし男性と女性が体術の長期戦に持ち込まれてしまっては女性が負ける可能性が十分強くなります。ですから、女性側としては相手を過剰に制しておくことで本当の意味の防衛が可能になりますが、この行為を日本の法律では保証しておりません。 これらの映像が裁判に持ち込まれたとしたらこの女性は犯罪行為(傷害罪)となってしまうわけです。 銃をもつ共和党 このような護身の哲学が最終的に強化され極端になったのが、アメリカ合衆国共和党の銃の哲学です。彼らは護身のために銃をもつことをよしとします。「人を殺すのは人であって銃ではない」とスローガンの元、究極的な護身として(護身という正当な理由付けの元)銃を所持することを正当化します。ボウリング・フォー・コロンバイン(原題: Bowling for Columbine)というドキュメンタリー映画ではアメリカという国の銃に対する根強い肯定感と問題を題材にしたものでしたが、未だに銃を規制する動きにはなっていないようです。 武術は銃に匹敵するか? 私見では日本の武術は銃に匹敵すると思っています。殺傷能力は高い。日本の体術は基本ベースが刀を扱うことを前提にしているので非常に殺傷力が高い。合気道の関節技は刀を握れないようにするという技が多いですし、刃物をもったことを前提にしているので守備力も非常に高いのです。にもかかわらず私自身は銃と同様に日本の武術は義務教育でおしえるべきだと思っています。これは非常に有用です。 両義性とグレーゾーン この両義性を乗り越えられるかというとそう簡単ではないということになります。つまるとこと憲法第九条と同様の哲学ということになるかと思います。 しかしながら単純に腕を掴まれた際の対処、カバンをひったくられそうになった際の対処、痴漢にあったときの対処、複数人に脅された際の対処、それらの対処が必要なのは被害者にならないようにするためというよりもむしろ、我々にはつまらない相手と関わっている時間はないということにつきると思っています。先程の女性のバックドロップは痛快です。一日じゅう警察に勾留されることもなければ奪われたものもありません。我々は常にコントロールできるものをコントロール配下においておく権利があり、コントールしようと強制してくるものに対しての対処をする権利があると思うからです。

未分類 2019.2.9(土)